お問合せ 9:00~17:00tel:072-221-0171

八朔祭

八朔祭ご由緒

堺旧市街地南ノ庄に存する開口神社の八朔祭は、永和元年(1375)の年中行事として8月1日(八朔)の日に御霊会が行われた記録と文明16年(1484)三村社祭礼記録-宮座記録が残っている事から、実に600年以上前から行われてきた堺市で有数の古き祭礼であり、現代に受け継がれてきた間にも様々な伝統文化や文化財、伝統行事が生まれ継承され続けています。

八朔祭ご由緒

開口神社は神功皇后が三韓より帰還された際に創建され天平18年(746)に行基が念仏寺を建立し神仏習合が始まり現在でも「大寺さん」という別称で親しまれています。

天永4年(1113)に開口村、木戸村、原村の三社併合により三村宮または三村明神と号されました。

この開口神社における最大の年中行事は泉州最初の秋祭りとなっている開口神社八朔祭であり4台の「ふとん太鼓」が各地区から宵宮と本宮に神社へと宮入し大変な賑わいを見せています。

古来から大祭を8月朔日としていましたが明治17年(1884)から9月12日と改められ神興の渡御が執行されています。

「ふとん太鼓」は西日本各地に存在する太鼓台といわれるもので地域によって形状の変化が千差万別であり堺市内においては5枚の蒲団と大きな4つの大房を付け、一度に約60人の担ぎ手が肩を入れて担ぎ上げ、乗り子が叩く太鼓の音に合わせて足を運び大きな房を振らせる事が最大の特徴です。

また堺型といわれる堺の宮大工が作り出した蒲団を乗せる台の下に小屋根の有る堺独自の形状の「ふとん太鼓」も存在し台数は少数ですが嘗て「建て倒れの堺」と云われた堺の宮大工が残した伝統文化を今に伝えています。

開口神社の「ふとん太鼓」は堺北ノ庄の菅原神社と並び、堺市における「ふとん太鼓」の文化発祥の地域であり堺に残る正確な記録では明治中期以降ですが言い伝えや他府県に売却された「ふとん太鼓」の記録や現存する太鼓台から江戸中後期から存在すると考えられています。

後に明治末年以降、現在の堺市各地に「ふとん太鼓」は伝播されていき「ふとん太鼓」の伝統文化は拡大を続け、現在の堺市全体の台数は戦前の堺旧市街地の台数(30数基)を超える台数となっています。

詳しく見る

太鼓会のご紹介

芦原濱太鼓会

芦原濱太鼓会

芦原濱は古い地名で現在の南旅篭町西3、4丁に該当する地域です。その名は神功皇后の時代に遡り当時の伝承が残る古き地域です。
この事から開口神社との所縁も深く開口神社御旅所の存する御旅所町として江戸時代の古地図にも記載されており毎年の八朔祭において本宮の夕方に渡御行列を迎え御旅所祭を執り行っております。

芦原濱のふとん太鼓は大正2年に初代ふとん太鼓を購入し現在のふとん太鼓は四代目になります。

四代目布団太鼓は「他所と違うものがいい」との考えを基本方針に設計されています。

先代より「鬼面一族」の隠し額を受け継ぎ、先代と同じく「鬼面太鼓」の名を継承し、ふとん太鼓の特長としては黒檀の8〜9倍もの価格がする「黒柿の孔雀杢(くじゃくもく)」を勾欄や布団台、力神とカラス天狗に使用しています。

黒柿を用いた布団太鼓は他に無く芦原濱が日本で唯一の黒柿を使用した布団太鼓になります。

太鼓台の特長としては戦後堺初となる「跳ね勾欄」を採用しています。この跳ね勾欄を持つ太鼓台は戦前では数台存在しておりましたが堺空襲において市内に残されていた物は全て消失してしまいました。

戦後に堺で購入された布団太鼓には跳ね勾欄のものは無く戦後初の跳ね勾欄の布団太鼓が誕生いたしました。

芦原濱は神功皇后が三韓から帰還された折に住吉大社へ報告に赴く際に上陸された皇后ゆかりの地である事から、狭間彫刻を筆頭に本体各所に施された彫刻の数々は非常に繊細に彫られており正面の彫刻は芦原濱に残る神功皇后の伝承をモチーフにしていただきました。

正面の町章紋にある鳥は名を鷁(げき)といい、神功皇后の使用された船の船首に取り付けられていたとされる古代の風を司る瑞鳥です。他地域においても京都祇園祭に出される船鉾にも取り付けられており、こちらも神功皇后の船を模したものです。

また氏神である開口神社において百年もしくはそれ以上の間、失われていた「もう一つの大寺御紋」を他所に売却された太鼓台より発見し神社にて確認してもらい、これを復活させる事とし町章紋や本体各部には現在の紋と共に使用しています。

太鼓台の主役である狭間(さま)彫刻が見た目のインパクトが強い跳ね勾欄や豪華な装飾で目立たなくなるのを防ぐために形状こそ淡路型の姿をしていますが淡路型の特長であるバランスの美しさを残しつつも本体の構成や比率は芦原濱独自の型となっています。

詳しく見る

大南戸川ふとん太鼓隅田青年団

大南戸川ふとん太鼓隅田青年団

大南戸川のふとん太鼓は元々天神社所属のもので、遠里小野在住の地車を手がけていた腕利きの某大工が、腕を振るって完成した地太鼓(堺型太鼓台)でしたが、その後間もなく、明治41年上石津(現堺市石津町)に売却されました。

上石津では、「晒仲」と銘打って曳航されていましたが、あまりの重量に閉口していたところ、明治43年、南旅籠長農人町の有志達(丹治氏(煉瓦)・鳥野氏・赤野氏・高田氏(長治郎)・田中氏等)の寄付金を募って、この太鼓台を購入し、太鼓台はここに「大南戸川」と改名され、五丁町の氏子を代表する名題のふとん太鼓となりました。(五丁町とは次の町並みで、南旅籠町農人町・新在家町農人町・隅田・少林寺町農人町・題目堂でしたが、一番地域の小さい隅田が有名となり、太鼓台も一名「隅田の太鼓」と呼ばれ、現在でも「ふとん」の所に「○隅」と印されています。)

この太鼓台は、総黒檀(最も良質の木であり、材質の良さは硬くて強靭、半永久的な耐久力があると言われている)で、泥幕には竹に虎の彫刻があります。足下駄を履かせているのは、一説には、太鼓台を引きづり、台棒を締めている紐が巻きにくいくらい削れ割れていた為下駄を履かせた、またもう一説には太鼓台自体の重量をわざと重くするために鉄の下駄を履かせた、とも言われています。

その隅田のふとん太鼓は長年担がれてきましたが、老朽化により、百余年の時を経て、平成26年7月に新調することとなりました。

新しい太鼓台には先代同様の堺型を継承し、通し柱に黒檀を使用し、泥幕には牡丹に唐獅子、竹に虎を施しています。また併合には養老の滝や二十四孝唐夫人、通玄仙人瓢箪から駒、司馬温公の瓶割を、縁葛や勾欄には花鳥彫りや富嶽三十六景を、虹梁には茄子の花や葉、実を施し、「日本の自然や風流“豊作祈願”を始めとした、泉州のこころ」を込めております。

開口神社を介して日本の神の恵みが行き渡り、皆様が幸せになっていただけるよう、堺の祭りを守り、発展させていきたいと存じます。

詳しく見る

新在家濱太鼓台保存会

新在家濱太鼓台保存会

新在家濱太鼓台の特徴は、まず誰もが目をやる布団の上の「青い結び」であります。戦前の堺旧市内において約30台ものふとん太鼓が存在した時代には白以外に様々な色の結びのふとん太鼓が存在していたと言い伝えられていますが現在では新在家濱のふとん太鼓のみが色の付いた結びを使用されています。

本体の形状は淡路型で堺市内にある他の淡路型のふとん太鼓よりも上部舞台柱の長さが二寸ほど長く最も角度の大きな布団を使用されています。

この形状バランスは淡路型の本場である淡路島で使用される形状に最も近く、すっきりとした印象の中にボリュームも感じさせる淡路型ふとん太鼓の特長が際立った美しくも勇壮なふとん太鼓です。

また装飾としては菊水紋を隠し額をはじめ太鼓台の各所に施し、飾り金具は全て銀で飾られています。

本体正面狭間彫刻には住吉大社大鳥居、反橋、高燈籠が刻まれています。この彫刻の題材は開口神社が住吉大社の奥の院である歴史からみても非常に由緒正しい意味のある狭間彫刻だといえます。

平成25年に100周年を迎え記念式典(中太鼓復活・『新在家濱ふとん太鼓100年』を発刊させて頂きました。

100年今昔...、歴史、文化を継承させて頂き今日に至っております。これからも幾多の難題に挑み同保存会で解決し、勇壮華麗なふとん太鼓=文化財を継承して参ります。

昨今、四代目太鼓台も毎年の八朔祭・堺まつりで年々傷み・破損が頻繁になり平成27年、新在家濱太鼓台保存会は平成32年(2020年)五代目太鼓台新調を決めました。新調委員会を発足し平成28年6月に太鼓台製作工務店を決め新調調印式典を開催させて頂きました。

地域・町会の賛同を頂き絢爛豪華な五代目ふとん太鼓を新調させて頂きます。

平成32年(2020年)天皇陛下即位・新元号・東京オリンピック開催と歴史的な出来事があります。新在家濱太鼓台保存会もふとん太鼓台五代目新調を新たな歴史と刻んで参ります。

- 新在家濱太鼓台保存会

詳しく見る

大甲濱太鼓保存会

大甲濱太鼓保存会

大甲濱ふとん太鼓は、平成11年に70年の時を経て復興させていただきました。地域の皆様や関係者の皆様のご支援の結果、開口神社の八朔祭りに宮入奉納させていただいています。

大甲濱の先人達は、開口神社の各種行事に昔より参加していたようで、江戸時代中期から明治時代にかけては、だんじりを奉納していました。そのだんじりは、住吉大佐彫又製の立派なもので、その姿は現在も河内長野市川上地区で偲ぶことができます。

その後、明治42年にふとん太鼓(初代 太鼓台)を購入し、八朔祭りに奉納していました。その太鼓台は、現在も柏原市太平寺地区にて豪快に担がれています。

その後、二代目となる太鼓台を購入し、同じく宮入奉納をさせていただいていましたが昭和7年にいずれかへ売却されました。

その後約70年間、地元である大町、甲斐町で大甲濱の太鼓の音が鳴ることはありませんでした。大甲濱の先人達は、山之口商店街に面した大寺西門(鳥居)を寄進しており、その鳥居に刻まれた「大甲濱」の文字を平成時代の私達は、誇りに思っています。

そんな時代の流れの中、平成10年9月堺市北区百舌鳥西之町の淡路型ふとん太鼓を三代目太鼓台として譲り受けることとなり、約70年間の沈黙を破り「大甲濱」の名を復活させ「大甲濱太鼓保存会」を結成、復興し、以降、平成11年より八朔祭に宮入奉納させていただいています。

大甲濱の紋は、江戸期より伝わる甲斐町の町紋を用いており、その謂れは、神功皇后が三韓より戻った際に、現在の堺市堺区宿院・甲斐町付近に兜を埋めたとの伝説によるものです。三代目の太鼓台は、昭和8年に制作されたもので、大工・柏木福平、桝合彫刻師・川原啓秀、虹梁彫刻師・開生珉の作品です。

詳しく見る